明治時代に関するブログ!!
明治天皇が即位、天皇は江戸に行幸し、新政府は天皇を中心とした新しい国家体制を築くことを目指した。そして新たに江戸を東京と改め日本の新しい政治の中心にすえる。(この遷都については諸説ある。)
尊皇思想に基づき、天皇は親政を行い人民を直接統治するとしたが、政治体制は大日本帝国憲法(明治憲法)が制定されるまで、様々に変化した。中国明朝などに準じ一世一元制を定め天皇の謚号は元号とし、それまでの陰陽道的改元を廃止した。
明治維新
慶応3年(1867年)徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜が、天皇に大政奉還したことを受け、朝廷は王政復古を宣言。これにより討幕派の薩摩藩や長州藩が中心となり明治新政府が成立した。大政奉還を受けて、翌年の1868年に年号を明治と改め、五箇条の御誓文によって、新しい政治方針を示した。
新政府は欧米列強の軍事的・経済的圧力に対抗するために、天皇を中心とした中央集権国家の構築を目指した。新政府は、1869年(明治2年)には各藩に版籍奉還を命令し、1871年(明治4年)には、廃藩置県を行った。地租改正によって従来の米年貢を廃止し、金納地租に代えて財政基盤とした。国民には、江戸時代の自由の制限をなくし、身分の撤廃を行い四民平等とし、日本全国の行き来の自由を認め、職業の選択の自由や、散髪帯刀の自由など様々なことを改革していった。
また、新政府は欧米列強の桎梏から脱出する為、富国強兵を国の重要政策とし、郵便制度の整備、鉄道の敷設、輸出産業の育成(一例が富岡製糸場)を行い(殖産興業)、1873年徴兵制を実施した(戸主は徴兵を免除されたので、主に戸主以外の次三男層や貧農層の子弟が兵役を担った為、血税一揆が起きた)。
征韓論をめぐって、強硬派の江藤新平・西郷隆盛・副島種臣・板垣退助・後藤象二郎の5人は大久保利通・岩倉具視らと対立し参議を辞任した(明治六年政変)。その結果、大久保利通の独裁体制が確立することとなった。 一方、下野した5人の参議は以下の行動を取った。西郷隆盛は故郷鹿児島に戻り、私学校を建設した。また、板垣、後藤、江藤、副島らは有司専制を批判するということで、1874年民選議院設立建白書を政府に提出、議会開設を主な要求とする自由民権運動の嚆矢となった。その後、江藤は故郷の佐賀に戻り、明治維新によって特権を失った不平士族をも巻き込んで江藤新平は佐賀の乱を起こしたが鎮圧された。
政権を掌握した大久保は、不平士族の不満を抑えることは困難であることを悟り、琉球漁民が台湾の地元民に殺害されたことを理由に、1874年、台湾出兵を行い(その結果、木戸孝允は下野した)、更に翌1875年江華島事件を引き起こし李氏朝鮮に日朝修好条規を締結させた。 加えて、下野した木戸や自由民権運動を率いている板垣らを牽制、懐柔する為に1875年大阪会議を開催し、漸次立憲政体樹立の詔書を発布した。これにより、立法機関である元老院、司法機関である大審院、地方官会議を開催することを決めた。一方、讒謗律、新聞紙条例で言論規制を行った。
内政面では、大久保は1873年内務省を設置し、殖産興業を後押しした。また、明治政府の財政難の原因となる不労所得者である士族の特権(秩禄、賞典禄)を削減したり(秩禄処分)、廃刀令を出したりした。相次ぐ改革により不平士族は反発、佐賀の乱を皮切りに、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が起き、最後に西郷隆盛が挙兵した(西南戦争)がいずれも政府により鎮圧された。西郷の死により、武力による政府転覆ではなく、言論による政府批判へと時代は変わっていく。
その後、1878年、大久保利通は暗殺され(紀尾井坂の変)、同年、木戸孝允も病没した為、明治新政府は、伊藤博文、大隈重信を中心に運営されることとなる。